この回の台本を読む(10分13秒・カズキとリサの会話)
リサあの人は、なぜそれを選んだのか。偉人の選択。第12回は、杉原千畝です。
カズキこの番組は、史料と研究をもとに、AIの音声でお届けする歴史の物語です。
カズキ1940年の夏。ヨーロッパの北のほう、リトアニアという国の日本領事館の前に、人が集まり始めた。目当ては一枚の紙。日本を通り抜けるための許可、通過ビザだ。
リサビザって、旅行のときの、あのビザですか。なんで、そんな紙のために人が並ぶんですか。
カズキその紙があれば、国から出られるかもしれなかったからだ。今日の主人公は、杉原千畝。ただ、先に言っておく。この話は、杉原さん一人の話じゃない。
リサえっ。杉原千畝って、たった一人で大勢を助けた人、って習った気がするんですけど。
カズキそう覚えている人は多いと思う。でも史料を見ると、いくつもの人の判断がかみ合って、やっと成り立った話なんだ。もう一つ。杉原さんが何を考えていたのかを書いた当時の記録は、ほとんど残っていない。想像で話すときは、想像だと言うよ。
カズキ場所は、リトアニアのカウナスという町。戦争が始まって、ナチス・ドイツの支配下に入った隣のポーランドの地域から、ユダヤ系の人たちが逃れてきて、ここに身を寄せていた。
リサリトアニアまで来れば、安全だったんじゃないですか。
カズキしばらくはね。でもこの夏、リトアニアはソ連に併合される。各国の領事館には、閉鎖が命じられた。逃げ道が、閉じていく時期だったんだ。
リサその状況で、日本のビザがどう役に立つんですか。
カズキソ連を横断して極東へ出て、日本を通り、その先の国へ向かう。そういう通り道が、まだ残っていた。その入り口になる紙を出せたのが、カウナスにいた日本の外交官、杉原千畝だ。
カズキただ、通過ビザには条件があった。行き先の国に入れる許可を持っていること、旅の費用を持っていること。東京の外務省、本省は、この条件に合わない人には出さない、という立場だった。
リサ集まった人たちは、条件に合っていたんですか。
カズキ多くは、合っていなかった。行き先の許可が取れていなかったんだ。
リサじゃあ、断るしかないですよね。ルールなんだし。
カズキ組織の立場としては、そうなる。杉原さんは、本省に何度か問い合わせた。でも許可は出なかった。回数や日付の細かいところは、はっきりしない。「何度か問い合わせたが、認められなかった」までは、複数の資料が一致している。
リサもし私が、バイト先の店長にダメって言われても、目の前に本当に困っている人がいたら……やるのかな。正直、自信ないです。クビになるかもしれないし。
カズキ杉原さんも、会社員と同じで、組織の一員だった。外務省の外交官として、本省の指示を受ける立場にいた。迷ったはずだと言いたくなるけれど、実は、その時の気持ちを書いた記録は、伝わっていない。想像だが、東京の方針も、目の前の人たちも、どちらも重かったと思う。
カズキ7月の下旬から、杉原さんは、条件に合わない人にも、ビザを書き始める。発給は8月の末まで続いた。領事館が閉鎖されたあとも、ホテルで書いたとされる。外務省自身も、条件を満たさない人にも発給したことを認めている。
リサルールを破った、ってことですよね。
カズキ本省の条件に合わないまま出し続けた、ということ。ただ、ここが大事なんだけど、ビザは、杉原さんが書いただけでは、多くの人にとって使えなかった。
リサどういうことですか。
カズキ同じカウナスに、ズヴァルテンディクというオランダの名誉領事がいた。本業は、電機会社フィリップスの現地責任者。彼は、カリブ海のオランダ領キュラソーには入国のビザが要らない、という趣旨の書き込みを、難民たちのパスポートに記した。オランダの公使が認めたうえでの書き込みだ。
リサキュラソーに行けるなら、それが行き先になりますね。
カズキそこに限界もあった。実際には現地の総督の許可が必要で、その但し書きは書かれなかった。キュラソーに着いた人は、ほとんどいなかったとされる。つまりこれは、「行き先がある」という体裁を整えた書類だった、とも言える。
リサそれって、ちょっと危ういやり方ですよね。
カズキ危うい。だから、きれいな美談にはしない。さらに、もう一つ。日本へ行くには、ソ連を通らなければならない。ソ連が通過を認めなければ、多くの人にとって、ビザは紙のままだった。認めた理由は、はっきりしていない。杉原さんとは別の、ソ連自身の判断だ。
リサオランダ人の書き込みと、日本のビザと、ソ連の許可。全部、別の人の判断なんですね。
カズキそう。別々の人が、別々の判断で動いて、それが重なった。どれか一つ欠けていたら、多くの人にとって使えなかっただろう。
リサ結局、何人くらいに書いたんですか。六千人って、聞いたことがあります。
カズキ記録に残る番号つきのリストでは、2,139件。ここは複数の資料で一致している。
カズキただ、一通のビザに家族が書かれることもあって、件数と人数は一致しない。
カズキビザを受け取った人は約6,000人とも言われるけれど、2,000人台から1万人ほどまで、数え方で大きく割れている。だから今日は、断定しない。
リサなんでそんなにバラバラなんですか。
カズキ当時の記録がすべて残っているわけじゃないし、家族の数え方も違う。あとから語られた数字も混ざる。
カズキ数字より先に、ひとつ押さえたいことがある。日本に着いた人のうち、約千人は、さらに上海へ移ったとされる。ビザは終点じゃなくて、通過点だったんだ。
リサ杉原さんは、なぜそこまでしたんでしょう。
カズキ当時、動機を語った記録は、資料に残っていない。
カズキ後年の手記で、人道の精神から決行したと述べ、本省の指示を無視したことも認めた、と伝えられる。ただ、これは後から書かれたもので、原文は確認できていない。
リサで、そのあと、杉原さん本人はどうなったんですか。
カズキ戦後まもなく、外務省を辞める。ここは見方が二つに割れる。
カズキ外務省は、戦後の行政整理で職員の3分の1ほどが辞めた流れの中の依願退職で、懲戒の記録は確認できないと説明している。
カズキ一方、四男の伸生さんは、帰国後に外務省から「例の件」を理由に辞表を求められた、と証言している。
カズキまた鈴木宗男さんは、本人は事務次官からビザの件で辞めてもらうと言われたと受け止めていた、と紹介している。ただ、通告の内容を示す文書は確認できていない。
リサどっちなのか、はっきりしないんですね。
カズキ今ある史料では、決められない。ただ、動かせない事実もある。
カズキ1984年、イスラエルのヤド・ヴァシェムが「諸国民の中の正義の人」と認定した。日本人では唯一。ズヴァルテンディクも、1997年に認定されている。
カズキ日本の外務省は、1991年に政務次官が杉原夫人に謝罪した。
カズキ2000年の10月には、外交史料館に顕彰プレートを設けて、河野洋平外相が、遺族との間に意思の疎通が欠けていた点を謝罪している。
カズキ外務省は、杉原さんの行為を「勇気ある人道的行為」と認識している、とも述べている。
リサ当時は条件を守れと言っていた組織が、あとから勇気ある行為って言うのは、すっきりしない感じもします。
カズキその感覚は大事だと思う。当時の組織の判断は、条件の厳守だった。のちの外務省の評価は、人道的行為。どちらも事実だ。それと、2000年の謝罪は、退職が不当だったとまで言ったものではない。資料から言えるのは、そこまでだ。
カズキ振り返ろう。1940年の7月下旬から8月末、杉原さんは、条件に合わないまま通過ビザを書いた。そこにはオランダの名誉領事の書き込みと、ソ連の通過許可があった。1984年に認定、2000年に顕彰と謝罪。
リサ最初、一人のヒーローの話だと思ってたんですけど、違いましたね。ひとつ聞いていいですか。決まりを破って人を助けたとき、その結果は、自分で引き受けないといけないんですか。
カズキ杉原さんがどう考えていたのかは、はっきり分かっていない。戦後の退職の理由がビザの件だったのかも、はっきりしないまま残った。だからこそ、あなたに問いたい。決まりと目の前の人が食い違ったとき、どう動くだろうか。その結果まで、引き受けられるだろうか。あの人は、なぜそれを選んだのか。また次の人物で。