あの人は、なぜそれを選んだのか

偉人の選択

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第6回

黒田官兵衛(孝高/如水)九州を制した軍を、自ら止めた日

慶長5年(1600年)9〜11月 ・ 10分35秒

1600年、関ヶ原合戦と同じ時期、九州で挙兵した黒田如水(孝高)は、石垣原の戦いに勝利し諸城を攻略、兵力を1万3000ほどに広げました。さらに勢力を広げられる状況の中、家康自身による侵攻中止命令を受け、如水は自ら軍を解散します。『天下取りの野望』という劇的な通説は学術的には否定的な評価が強く、本編では断定せず、確かな事実から『力の絶頂で自制する選択』を追います。

この回の台本を読む(10分35秒・カズキとリサの会話)
リサあの人は、なぜそれを選んだのか。偉人の選択。第6回は、黒田官兵衛(孝高/如水)です。
カズキこの番組は、史料と研究をもとに、AIの音声でお届けする歴史の物語です。
カズキ手に入れた大きな力を、使い切らずに、自分から手放す。そんな選択ができる人は、どれくらいいるだろう?
リサ普通は、せっかく手に入れた力なら、使い切りたくなりますよね。
カズキそう。でも今日取り上げる人物は、まさにその絶頂で、自ら手を止めた。黒田官兵衛(くろだ かんべえ)――のちに如水(じょすい)と名乗った、豊臣秀吉の軍師として知られる人物だ。舞台は1600年、九州。
リサ関ヶ原の戦いと同じ年ですよね。
カズキそう、まさに同じ時期に、九州で起きた出来事だ。
リサ黒田官兵衛って、どんな人だったんですか?
カズキ播磨(現在の兵庫県西部)の小さな大名の家に生まれ、早くから織田信長、そして豊臣秀吉に仕え、軍師として知られるようになった。秀吉の天下統一を支えた功労者の一人だ。ただ、1600年当時、官兵衛はすでに世間的には隠居した身だった。家督は息子の長政(ながまさ)に譲り、剃髪して如水と名乗っていた。
リサもう現役を退いていた、ということですか。
カズキ表向きはそうだ。隠居先は九州・豊前中津(現在の大分県中津市)。この年、天下の情勢は大きく動いていた。秀吉は1598年に死去し、徳川家康と石田三成の対立が深まっていた。
リサ関ヶ原につながる対立ですね。
カズキそう。長政は徳川方(東軍)について関ヶ原へ向かった。残された如水は、九州の隠居先で、情勢を見ていた。
リサそれで、何が起きたんですか。
カズキ1600年9月、西軍に与した豊後の大名・大友義統(よしむね)が、旧領回復を狙って豊後に兵を進めた。これを機に、如水は自ら兵を挙げる。隠居の身とはいえ、ただ見ているだけではいられなかった。
リサ隠居した人が、また戦に出たんですね。
カズキ9月13日、豊後・石垣原(現在の大分県別府市)で、如水の軍(公称9000〜1万ほど)と大友軍(2000〜3000ほど)が激突。如水側が勝利し、大友方の有力な家臣だった吉弘統幸(よしひろ むねゆき)らが討死、義統は剃髪して降伏した。
リサ勝ったんですね。
カズキここで終わらなかった。翌日から如水はすぐに進撃を再開し、安岐城、富来城、香春岳城、小倉城と、次々に西軍方の城を攻略していく。柳川城主だった立花宗茂(たちばな むねしげ)も、加藤清正・鍋島直茂(なべしま なおしげ)らとともに降伏させた。この間、兵力は雪だるま式に増え、最終的には1万3000人ほどにまで膨らんだとされている。
リサすごい勢いですね。
カズキそして加藤清正とともに、さらに薩摩の島津氏を討つべく、肥後方面へ軍を進めていく。この時点で如水の勢力は、九州の中でも際立って大きなものになっていた。
リサで、ここからどうなるんですか?
カズキ11月、肥後国水俣(みなまた、現在の熊本県水俣市)まで進軍した如水のもとに、動きが重なる。11月11日、立花宗茂(たちばな むねしげ)の仲介で、如水・清正らと島津側のあいだに、現地での戦闘停止の合意ができた。そして翌12日、家康自身が如水に宛てた書状で、薩摩侵攻そのものの中止を命じた。徳川家と島津家の正式な和解が成立していたわけではない。島津側の処遇もまだ何も定まらないままの、停戦と撤兵の指示だった。
リサせっかく勢いに乗っていたのに。
カズキそう。ここが、今日の核心の選択だ。如水の手元には、1万3000の兵がいた。石垣原での勝利から、わずか2か月足らずでここまで勢力を広げてきた。このまま進めば、九州でさらに勢力を広げられる可能性もあった。だが、家康からの指示は「止まれ」だった。
リサ従わない、という選択もあったんですか?
カズキできなくはなかっただろう、というのが、後世の見方だ。実際、この年の10月、如水は毛利方の吉川広家(きっかわ ひろいえ)に書状を送った、と伝えられている。その書状には「関ヶ原の戦いがもう1か月続いていれば、中国地方へ攻め上り、家康と決戦するつもりだった」という内容が記されている、とする記事がある。
リサえっ、家康と戦うつもりだったってことですか?
カズキここは、慎重に扱いたい部分だ。この書状の原文を、今回の調査では直接確認できていない。紹介している記事はあるが、所蔵先や原文そのものにはあたれていない。だから、「そう伝わる書状がある」という、距離を置いた言い方にしておきたい。
リサ本当にそう考えていたかは、分からないということですね。
カズキそう。さらに言うと、のちの世には「如水は天下を取る野望を抱いていた」という、もっと劇的な話も語られてきた。だが、歴史学者の渡邊大門氏は、この「天下取り野望説」を事実無根だと断定している。当時の如水の石高は家康に遠く及ばず、天下を狙えるような実力差ではなかった、という理由だ。渡邊氏は、九州での挙兵の本当の目的を、黒田家の存続・勢力維持にあったと見ている。
リサ野望というよりは、家を守るための行動だった、ということですか。
カズキそう考える研究者が多い、ということだ。ここで確かなのは、如水が1万3000という大きな兵力を手にし、さらに進める余地がありながら、家康の停戦指示に従って軍を止め、解散した、という事実そのものだ。本人が何を考えていたかは、正確には分からない。だが、「進めば、さらに勢力を広げられたかもしれない状況で、自ら止まった」という選択の構図は、確かな事実から見えてくる。
リサそれで、如水はこの後、どうなったんですか。
カズキ軍を解散した如水は、九州での独自の軍事行動を終える。一方、関ヶ原本戦に出ていた息子の長政は、東軍・徳川方での功績が認められ、筑前一国、52万石という大きな所領を与えられた。黒田家全体としては、所領を安堵され、むしろ大きく飛躍する結果になった。
リサ如水自身は、どうなったんですか。
カズキ如水自身は、その後も表向きは隠居の身のまま過ごし、1604年に亡くなった。最後まで、自分の功績を誇るような大きな地位には就かなかった。
リサせっかく大きな力を手にしたのに、自分では使わなかったんですね。
カズキそう見える。力を示したのは九州での短い期間だけで、その後は手にした勢いを、家のため、息子の代に引き渡す形になった。
リサこの出来事は、歴史の中でどう語られてきたんですか?
カズキ先ほど触れた「天下取りの野望」という話は、江戸中期に成立した説話集『常山紀談』などに由来する、「十万の兵がいれば家康とも戦えた」という発言が、後世ドラマチックに広まっていった側面が大きい。同時代の史料での裏づけはない。
リサじゃあ、本当のところは分からないんですか。
カズキ分からない。確かなのは、合戦で勝ち、城を攻略し、兵力を増やし、そして停戦指示が来たときに、進軍を止めたという、行動の記録だけだ。そこにあったはずの迷い――このまま勢いに乗るか、家のために止まるか――は、本人の言葉としては残っていない。
リサそれでも「力の絶頂で、自ら止まった」というのは、史実として言えることなんですね。
カズキそう。劇的な野望の物語ではなく、積み上げてきた勢いを、自分の手で止める、という選択そのものに、今日は注目したい。
カズキ振り返っておきたい年号と出来事。1600年9月、石垣原の戦いで如水が大友義統の軍を破り、その後、九州各地の城を攻略して兵力を1万3000ほどに広げたこと――これは確実な事実だ。同年11月、現地での戦闘停止の合意と、家康自身による侵攻中止の命令を受け、如水が軍を解散したこと――これも確実な事実だ。徳川家と島津家の正式な和解が成立するのは、この2年後、1602年のことだ。一方、「天下を狙っていた」という話は、のちの世に語られた、学術的には異論の強い通説であることを、分けて伝えておきたい。
リサ勝ち進んでいたのに、自分から止まる――これって、簡単なことじゃないですよね。
カズキ簡単ではない。隠居した身でありながら兵を挙げ、勝ち続け、力を蓄えた人が、その力をさらに使うこともできたはずの場面で、自ら手を止めた。その結果、黒田家は存続し、息子の代にはむしろ大きく栄えることになった。
リサ如水自身は、その選択を、どう感じていたんでしょうか。
カズキそこは、記録には残っていない。あなたなら、絶頂の瞬間に、自分から止まることができるだろうか。あの人は、なぜそれを選んだのか。また次の人物で。

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