この回の台本を読む(8分01秒・カズキとリサの会話)
リサあの人は、なぜそれを選んだのか。偉人の選択。第5回は、淀の方です。
カズキこの番組は、史料と研究をもとに、AIの音声でお届けする歴史の物語です。
カズキ「城を守るための選択をしたら、むしろ城を守れなくなった」としたら、どう思う?
リサえ、矛盾してませんか。守るための選択をしたんですよね?
カズキそう。でも歴史には、そういう逆説がある。今日取り上げるのは、1614年、慶長19年の大坂冬の陣。豊臣方が徳川方との和睦に応じ、大坂城の堀を埋めることを受け入れた出来事だ。この出来事は、長く「淀の方(茶々)が決めた」と語られてきた。
リサ秀吉の側室で、秀頼のお母さんですよね。
カズキそう。ただ、今日はその「淀の方が決めた」という語り方自体を、少し立ち止まって考えてみたい。
リサ淀の方って、そもそもどういう人なんですか。
カズキ本名は茶々。父は北近江の大名・浅井長政、母はお市(織田信長の妹)。1573年、浅井家が信長に滅ぼされたとき、幼くして母・妹たちと共に城を脱している。その後、母のお市は柴田勝家に嫁ぎ、1583年、柴田家が秀吉に滅ぼされた際に自害した。茶々はこのとき妹の初・江とともに、再び戦乱の中で家を失っている。
リサ二度も、戦で家が滅んでいるんですね。
カズキそう。その後、茶々は秀吉の側室となり、1593年に秀頼を産んだ。秀吉が1598年に死去した後は、大坂城で幼い秀頼を支える立場になった。1614年、大坂冬の陣の時点で秀頼は21歳、茶々は40代半ばとされる。
リサその後、大坂城で何が起きたんですか。
カズキ1614年11月、徳川家康は大坂城を大軍で包囲した。新兵器だった大砲による攻撃も加えられ、城内に着弾したと伝えられている。豊臣方の中では、このまま籠城を続けるか、和睦に応じるかで意見が分かれた。主戦派の中心と言われるのが、この冬の陣で名を上げた真田信繁(幸村)ら。一方、交渉による和睦を進めようとしたのが、大野治長ら和平派だ。
リサ真田信繁と大野治長で、意見が割れていたんですね。
カズキそう伝えられている。実際の和睦交渉は、豊臣方からは織田有楽斎(信長の弟)と大野治長、徳川方からは淀の方の妹・常高院(初)と家康の側近・阿茶局が担当した。双方とも女性が交渉の窓口に立っていた、という点も当時の特徴だ。
リサじゃあ、淀の方自身は、どこにいたんですか。
カズキここが、今日いちばん丁寧に話したい点だ。最終的にこの和睦・堀埋め立てを受け入れたのは、秀頼の裁可を経た豊臣方全体の判断であり、交渉の実務を担ったのは有楽斎・治長、常高院・阿茶局だった。淀の方個人が単独でこの決断を下したと直接示す一次史料は、今回の調査では確認できていない。
リサえ、「淀の方が決めた」って、よく聞く話だと思っていました。
カズキそう語られることが多い。でもそれは、合議と秀頼の裁可という構造の中の出来事を、後の時代の読み物が「淀殿が決めた」という分かりやすい一つの物語に落とし込んでいった結果という面がある。
リサでも、秀頼はまだ21歳ですよね。母親として、何も言わなかったとは思えないんですが……。
カズキそこは記録に残っていない領域だ。分かっている事実だけを並べると、こうなる。秀頼にとって茶々は実母であり、幼い頃から城で共に過ごしてきた、最も近い存在だった。合議の場での淀の方自身の発言記録は残っていないが、城内で最も秀頼に近い人物として、何らかの形で意向が伝わっていたと考える研究者もいる。これは記録に基づく一つの解釈であって、確定した事実ではない、ということをまず伝えておきたい。
リサ「きっとこう思っていたはずだ」と決めつけないほうがいいんですね。
カズキそう。分かっているのは、和睦条件として外堀――一部の史料では内堀も含むとされる――の埋め立てが決まり、それを豊臣方が受け入れたという結果だけだ。合議を経て秀頼が最終的に裁可したこの決定を、淀の方個人がどう望み、どう感じたかという本人の言葉は、一次史料には残っていない。
リサその後、城はどうなったんですか。
カズキ堀を失った大坂城は、防御力を大きく損なった状態になった。翌1615年、慶長20年、大坂夏の陣で徳川方が再び攻め込み、大坂城は落城した。淀の方は秀頼とともに城内で自害したと伝えられている。
リサ堀を埋めたことが、結果的に命取りになった……。
カズキ結果から見ればそう言える。ただ、これも「結果を知っている今だからこそ言える評価」だという点には注意したい。1614年の時点では、翌年に夏の陣が起き、城が落ちることを、誰も確実には分かっていなかった。
リサこの出来事、歴史の中ではどう位置づけられているんですか。
カズキ大坂夏の陣での豊臣家の滅亡は、徳川による天下統一の完成を意味する出来事とされている。ただ、今日ここで触れておきたいのは、その後の語られ方についてだ。江戸時代に書かれた軍記物――『大坂物語』のような文学性の強い読み物――では、冬の陣の和睦やその結果が、淀の方個人の判断ミスとして描かれることが多かった。
リサでも、今聞いた話だと、合議と秀頼の裁可を経た決定ですよね。
カズキそのとおりだ。歴史学では、こうした「一人の女性に責任を帰属させる語り方」自体が、後世――特に江戸期以降の軍記物や講談――に由来するバイアスの可能性があると指摘されている。この番組でも、その語り方をそのまま引き継がないように、今日はまず合議の構造を示した上で、淀の方がその中で何を感じ、何を望んだと伝えられているかを扱うようにした。
カズキ振り返っておきたい年号と出来事。1614年、慶長19年、大坂冬の陣での和睦・堀埋め立ての受諾――これは『当代記』『駿府記』など同時代に近い記録に基づく確実な出来事だ。1615年、慶長20年、大坂夏の陣での落城と、淀の方・秀頼の自害――これは通説として広く語られている。
リサでも、「淀の方個人が決めた」というところは、確実ではなかった……。
カズキそう。交渉を担ったのは織田有楽斎・大野治長、常高院・阿茶局であり、最終的には秀頼の裁可を経ている。淀の方がその中でどう感じ、何を望んだかは、本人の言葉として史料に残っているわけではない。
リサじゃあ、どうして長い間、「淀の方が決めた」って語られてきたんでしょうか。
カズキそこに、今日の「残る問い」がある。合議の中にいた一人の人物に、結果の責任だけが集まっていったのはなぜか。もしそれが「物語として分かりやすいから」という理由だったとしたら、私たちは歴史をどう読むべきなんだろうか。あの人は、なぜそれを選んだのか――今日は、その問いの立て方自体を、一緒に考えてみてほしい。また次の人物で。