あの人は、なぜそれを選んだのか

偉人の選択

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第3回

豊臣秀次関白罷免から高野山での切腹へ

1595年(文禄4年) ・ 8分00秒

1595年、関白の地位を追われて高野山に入った豊臣秀次は、なぜ切腹に至ったのか。命じられたのか、自ら選んだのか。研究者の間でも見方が分かれるこの問いを、カズキとリサがそれぞれの説の側に立って考えます。

ご注意:切腹や一族の処刑など、人の死を扱う内容を含みます。

この回の台本を読む(8分00秒・カズキとリサの会話)
リサあの人は、なぜそれを選んだのか。偉人の選択。第3回は、豊臣秀次です。
カズキこの番組は、史料と研究をもとに、AIの音声でお届けする歴史の物語です。
カズキ切腹を命じられたのか、それとも自分で死を選んだのか。この問いに、歴史家たちはいまだに答えを出せていない。
リサ命じられたのと、自分で選んだのって、全然意味が違いますよね。
カズキ全然違う。しかもこの人物は、ついこの前まで、天下の最高位・関白の座にいた。
リサそれが、どうしてそんなことになるんですか。
カズキ豊臣秀吉の甥であり養子だった、豊臣秀次の物語だ。1595年、彼の身に何が起きたのかを見ていこう。
リサ秀次って、秀吉の子どもじゃないんですか?
カズキ違う。秀次は秀吉の姉の子で、秀吉の養子になった人物だ。1591年、秀吉から関白の地位を譲られて、豊臣政権の後継者と見られていた。
リサじゃあ、次の天下人になるはずだった人、ということですか。
カズキ当時はそう見られていた。豊臣政権では、血のつながった実子がいなかった秀吉にとって、養子である秀次が後継者だった。この時代、後継者の立場は血統と養子関係で決まり、それが一夜で揺らぐこともあった。
リサ一夜で揺らぐ、というのが引っかかります。
カズキそのとおりの出来事が、このすぐ後に起きる。ちなみに同じころ、秀吉は1592年から朝鮮への出兵(文禄の役)を始めていて、政権の中では対外政策と後継問題が同時に進んでいた。
リサ何が起きたんですか。
カズキ1593年8月、秀吉と淀殿の間に、実の子・秀頼が生まれた。
リサあ……それまで後継者だった秀次の立場が……。
カズキそう、一気に不安定になる。関白の地位にとどまって、秀頼を推す人たちと対立するか。それとも地位を譲って、身の安全を図るか。秀次がどちらを望んでいたかを直接示す記録は残っていないけれど、こういう状況に置かれていたと考えられている。
リサ秀吉の側はどう考えていたんですか。
カズキ秀次を排除すれば、政権内の対立の種を取り除ける。でも、自分で関白に据えた養子を粛清することには、反発も予想された。どちらの側にとっても、簡単な答えがない状況だった。
リサ秀次自身は何かしたんですか。
カズキ1595年7月、秀次は「自分には野心がない」という誓紙を秀吉に提出したとされている。ここから、身の安全を強く望んでいたことがうかがえるけれど、これも本人が何を考えていたかを直接語った記録ではなく、行動の記録だ。
リサそれで、秀次はどうなったんですか。
カズキ関白の職を奪われ、高野山に追放された。ここからの経緯は、実は二つの見方がある。
リサ二つ?
カズキ一つは、昔からよく語られる見方で、秀吉が切腹を命じたという説。もう一つは、近年の研究で示されている見方で、秀次は自らの潔白を証明するために、自発的に高野山へ向かい、最終的に自ら死を選んだという説だ。
リサ全然違う話じゃないですか。どっちが正しいんですか。
カズキここは、一度それぞれの側に立って聞いてみよう。私はまず、昔から語られてきた「命令説」の側に立ってみる。
リサはい。
カズキ関白を一度は譲り渡した養子を、理由をつけて高野山に追い、最後には死に追い込む。秀頼という実の子が生まれた直後に起きたこの一連の流れを見れば、秀吉の意思が働いていたと考えるのが自然だ、という見方は昔から根強い。これは江戸時代に書かれた軍記物に、その根拠の多くを置いている。
リサなるほど。じゃあ、今度は私が「自発説」の側に立ちます。
カズキどうぞ。
リサ同じ時代に生きた公卿が書いた日記、『兼見卿記』や『言経卿記』には、秀次が自ら高野山に赴いたことを示す記述があるとされています。江戸時代の軍記物より、同じ時代に書かれた記録のほうが、信じられるんじゃないですか。
カズキ鋭い指摘だ。実際、そう考える研究者が増えているのは確かだ。付け加えると、高野山での秀次には、身の回りの世話をする使用人の同行が許されていたとされていて、これは秀吉が秀次を直ちに死なせる意図ではなかった可能性を示す、という見方もある。
リサ……となると、「自発説」のほうが有力、ということになりませんか。
カズキそう言いたくなるけれど、断定はできない。同時代の記録のほうが史料として重みを持つ、というのは一般的な史料の扱い方として正しい。でも、それだけで「命令説」が完全に否定されたわけではない。この番組では、どちらか一方に決めつけず、両方の見方として伝えておく。
リサ……わかりました。
リサそれで、秀次は結局どうなったんですか。
カズキ1595年7月15日、高野山で切腹した。享年28。
リサ若いですね……。
カズキそして、その代償はそれだけでは終わらなかった。同年8月2日、京都・三条河原で、秀次の妻妾や子ら39名が処刑された。
リサ39名……それは秀次本人だけじゃなく、関係のない家族も、ということですか。
カズキそのとおりだ。
リサ……。
カズキこれは起きた事実として伝えておく必要がある。ただ、どんな様子だったかを刺激的に語ることは、この番組では避けたい。起きたことの重さを、淡々と受け止めてほしい。28歳の、一人の死。そして、その後に続いた39人の死。この二つは、同じ重さで語ってはいけないと私は思う。
リサ……はい。
リサこの後、豊臣政権はどうなったんですか。
カズキ秀次がいなくなったことで、秀頼が実質的に唯一の後継者になった。これが、秀吉の死後の政権運営、五大老・五奉行といった体制にも影響したと考えられている。
リサ秀次って、後の時代では悪く言われていたりしませんか。
カズキ「殺生関白」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。むやみに人を殺した関白、という悪評だ。
リサそれって本当なんですか。
カズキ秀次が生きていた同時代の史料には、この話は見当たらない。秀吉が亡くなった後に書かれた軍記物を通じて広まったとされる、後世の逸話だ。だから、この番組ではこれを事実として紹介しない。
リサ生きている間に言われていたわけじゃなく、死んだ後に、そういう話が作られていった、ということですか。
カズキそう考えるのが、今の研究では自然だとされている。
カズキ振り返っておきたい言葉は三つ。「関白」(天皇を補佐する最高位の官職。秀次は1591年にこの地位についた)、「高野山」(秀次が追放され、最終的に切腹した場所)、そして1595年(文禄4年)、秀次が関白を追われ、命を落とした年。
リサ結局、秀吉が命じたのか、秀次が自分で選んだのか。どっちだと思いますか。
カズキ正直に言うと、どちらとも言い切れない。同時代の記録を重く見るなら「自発的な死」に近づくし、昔から語られてきた話を重く見るなら「秀吉の命令」に近づく。史料そのものが割れている以上、この番組でも一方に決めつけない。
リサわからないことを、わからないままにしておく、ということですね。
カズキそう。あの人は、なぜそれを選んだのか。それとも、選ばせられたのか。その答えは、まだ歴史の中に眠っている。