エピソード
第16回
宇野千代巨額の負債のあと、宇野千代は何を続けたのか
昭和(日本・東京) ・ 11分43秒
作家・宇野千代は、服飾雑誌『スタイル』を出す出版社の創立者でもありました。資料によれば、会社は1959年に行き詰まり、巨額の負債が残ったとされます。土地や住まいを手放し、着物の仕事や執筆で返していったとされる日々を、残る資料の範囲でたどります。完済は1964年とされます。心の中は推測せず、何をしたかを追い、最後に問いを残します。
ご注意:倒産・負債・返済の経緯は辞典類になく、読み物や自治体の紹介など二次資料に基づくため、断定せず「〜とされる」で語ります。本人の心情は書きません。
台本を読む・くわしく →第15回
聖徳太子なぜ太子は信じられたのか
飛鳥時代〜鎌倉・室町・江戸時代(日本・奈良、大阪、愛媛ほか各地) ・ 12分04秒
厩戸の由来、十人の訴えを聞いた豊聡耳、未来を知る力、慧思の生まれ変わり、黒駒の飛翔、片岡山の飢えた人。聖徳太子には不思議な伝説がたくさんあり、ゆかりの寺は日本中にあります。日本書紀、伝暦、親鸞の和讃、職人の太子講をたどり、なぜ太子は信仰されたのか、その狙いと人々の思いを考えます。実在をめぐる学説も両論を並べます。
ご注意:仏教などの信仰を扱います。特定の信仰の優劣を述べる回ではありません。
台本を読む・くわしく →第14回
小栗上野介忠順戦うべきだと言った、江戸城の評定
1868年(慶応4年)旧暦1月〜閏4月(江戸城・上野国権田村) ・ 9分04秒
1868年、旧幕府の勘定奉行だった小栗上野介忠順は、江戸城の評定で徹底して戦うことを主張し、退けられました。その後、領地の権田村へ退き、新政府軍に捕らえられます。勝海舟とは反対の選択をした人は、何を守ろうとしたのか。2つの選択として考えます。
ご注意:戦争と、処刑による死を扱います。処刑の様子の描写は最小限にとどめています。台本の心情や会話は、史料に基づく解釈であり、想像の部分は「想像だが」と明示しています。
台本を読む・くわしく →第13回
トマス・モア言わないことで、守ろうとした
1534〜1535年(イングランド・ロンドン) ・ 9分55秒
1534年、国王ヘンリー8世の継承法への宣誓を求められたトマス・モアは、継承そのものは認めながら宣誓文を拒み、具体的な理由は公には語りませんでした。言わないことで何が守れたのか、史料から分かることと分からないことを分けてたどります。かつて大法官として異端者に厳しく臨んだ側面にも触れます。
ご注意:宗教対立と、処刑(斬首)・異端者の火刑に触れます。処刑の場面の描写は最小限にしています。
台本を読む・くわしく →第12回
杉原千畝命令か、目の前の人か
1940年(リトアニア・カウナス) ・ 10分13秒
1940年の夏、リトアニアの日本領事館に集まった難民に、杉原千畝は本国の条件に合わないまま通過ビザを書き続けました。けれど、この話は杉原一人では成り立ちません。オランダの名誉領事やソ連の判断など、別々の人の選択が重なった様子と、戦後の退職をめぐる二つの見方、救われた人数の諸説を、史料で確かめられる範囲でたどります。
ご注意:第二次世界大戦期のホロコーストを背景に扱います。迫っていた危険は地名・日付・出国先の話で伝え、具体的な暴力の描写は行いません。人数や退職の理由は資料により見解が分かれるため、断定せずに紹介します。
台本を読む・くわしく →第11回
ローザ・パークス席を立たなかった夜に、もう一度選んだ
1955年(アメリカ・アラバマ州モンゴメリー) ・ 10分08秒
1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリーのバスで、ローザ・パークスは運転手の移動命令を拒んで逮捕されました。その夜、自分の件を隔離法の違憲を争う事例に使うことに同意し、バス・ボイコットは1年以上続きました。「疲れた針子が偶然」という語られ方は不正確で、彼女は1943年からNAACPの書記を務めた活動家でしたが、座ったことが計画だったとは言えません。罰金で終わらせる道と、名前を出して争う道。バスの中の心情も、夜に同意した理由も同時代の史料はなく、本編では断定せずに追います。
台本を読む・くわしく →特別編
松井秀喜なぜ「巨人軍監督」選択したのか
2026年(現在進行中) ・ 10分42秒
2026年10月23日、読売ジャイアンツが松井秀喜氏の新監督就任を発表・記者会見しました。本人は就任理由について『長嶋茂雄氏との約束』発言を会見で自主撤回し、『みなさんがご自由に考察をしてください』と述べ、決め手を明言しませんでした。番組で初めて、存命・現役の人物を取り上げる特別編です。結末が確定していない『進行中の歴史』として、本人が語らなかった理由を、好意的な見方(長嶋氏との約束説・師弟継承説・愛着説・ファンの支持)とともに追います。
台本を読む・くわしく →第10回
千利休詫びなかった、と伝わる日
天正19年(1591年) ・ 9分22秒
1591年、茶の湯の第一人者として秀吉に重用されていた千利休は突然失脚し、堺への蟄居を命じられました。前田利家・古田織部・細川忠興ら弟子の大名たちが助命に奔走しましたが叶わず、京へ呼び戻された利休は2月28日(新暦では4月21日ごろ)、聚楽屋敷で切腹しました。詫びれば許されたかもしれない(とされる)なか、利休は詫びなかった、と伝わります。切腹の理由は大徳寺山門木像問題など諸説あり、学術的に定まっておらず、本人の言葉も残っていません。本編では『信念・美意識を曲げるか、死を選ぶか』という選択を、断定せずに追います。
台本を読む・くわしく →第9回
徳川家康旭姫の輿入れと秀吉への臣従
天正14年(1586年)5〜10月 ・ 9分00秒
1586年、秀吉の妹・旭姫を正室に迎え、秀吉の実母・大政所を人質として受け入れたうえで、徳川家康は大坂へ上り秀吉に臣従しました。上洛すれば独立した立場を手放し、拒み続ければ全面戦争となるおそれがありました。家康が最後に応じた決め手は複数の要因が絡み、一つには絞れません。本編では、前回の石川数正出奔に続く出来事として、『屈服か、戦略的な生き残りか』という選択と、駒として動かされた旭姫・大政所の立場も追います。
台本を読む・くわしく →第8回
石川数正徳川出奔、豊臣への帰参
天正13年(1585年)11月 ・ 8分01秒
1585年11月、徳川家康の最古参の重臣で岡崎城代、対秀吉交渉の実務も担っていた石川数正は、妻子・一族・家臣団を率いて徳川を出奔し、豊臣秀吉のもとへ走りました。徳川は軍事機密の漏洩という打撃を受けて軍制を改め、数正はのちに信濃松本の大名となります。出奔の本当の理由は史料上いまも分かっておらず、諸説があってもどれも確証はありません。本編では断定せず、長年仕えた主君を去る『孤立のなかの選び直し』を追います。
台本を読む・くわしく →第7回
勝海舟江戸を救った交渉、その手柄は誰のものか
慶応4年(1868年)3月 ・ 10分12秒
1868年3月、新政府軍の江戸城総攻撃が3月15日に迫る中、旧幕府陸軍総裁・勝海舟は13日・14日に西郷隆盛と会談し、江戸城明け渡しなどを条件に総攻撃中止を取り付けました。ただし会談に先立つ3月9日、山岡鉄舟が駿府で西郷と会い、条件の大枠はすでに固まっていました。功労者を誰と見るかは研究者の間でも見解が分かれています。本編では、交渉の席についた人と、その前に道を作った人の両方から『対立を避けるための交渉』という選択を追います。
台本を読む・くわしく →第6回
黒田官兵衛(孝高/如水)九州を制した軍を、自ら止めた日
慶長5年(1600年)9〜11月 ・ 10分35秒
1600年、関ヶ原合戦と同じ時期、九州で挙兵した黒田如水(孝高)は、石垣原の戦いに勝利し諸城を攻略、兵力を1万3000ほどに広げました。さらに勢力を広げられる状況の中、家康自身による侵攻中止命令を受け、如水は自ら軍を解散します。『天下取りの野望』という劇的な通説は学術的には否定的な評価が強く、本編では断定せず、確かな事実から『力の絶頂で自制する選択』を追います。
台本を読む・くわしく →第5回
淀の方堀を埋める和睦、合議の中で望んだこと
慶長19年(1614年)大坂冬の陣〜慶長20年(1615年)大坂夏の陣 ・ 8分01秒
1614年、大坂冬の陣末期、豊臣方は徳川方との和睦条件として堀の埋め立てを受け入れました。この決断は長く「淀の方(茶々)が決めた」と語られてきましたが、史料を見ると、和平派・主戦派の対立や秀頼の裁可を含む合議の構造があり、淀の方個人の単独の決断と断定できる一次史料はありません。なぜ一人の人物に責任が集まっていったのか、語られ方自体を考えます。
台本を読む・くわしく →第4回
蜂須賀正勝身分違いの男に賭けた、綱渡りの選択
永禄9年(1566年)頃〜天正9年(1581年) ・ 11分50秒
1566年ごろ、尾張の土豪・蜂須賀正勝は、まだ誰も先が見えない低い身分の家臣・木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に付属したとされています。出世が確実な重臣ではなく、将来の読めない相手に賭けたという選択は、本人の心情までは史料に残っていません。身分差と情勢という確かな事実から、知られざる『綱渡り』の選択を追います。
台本を読む・くわしく →第3回
豊臣秀次関白罷免から高野山での切腹へ
1595年(文禄4年) ・ 8分00秒
1595年、関白の地位を追われて高野山に入った豊臣秀次は、なぜ切腹に至ったのか。命じられたのか、自ら選んだのか。研究者の間でも見方が分かれるこの問いを、カズキとリサがそれぞれの説の側に立って考えます。
ご注意:切腹や一族の処刑など、人の死を扱う内容を含みます。
台本を読む・くわしく →第2回
豊臣秀長多武峯(談山神社)の郡山移転
1585年(天正13年)〜 ・ 11分28秒
1585年、兄・秀吉から大和の国を任された豊臣秀長。兄が命じた山上の寺の移転を、現地の責任者としてどう進めるのか。命令は曲げない、けれど混乱や略奪は許さない――。本人が書いた書状を手がかりに、天下人の弟の選択を読み解きます。
台本を読む・くわしく →第1回
豊臣秀吉中国大返しと山崎の戦い
1582年(天正10年) ・ 9分10秒
1582年、毛利方の備中高松城を囲んでいた羽柴秀吉のもとに、主君・織田信長が討たれたという知らせが届きます。敵に知られれば、進めていた和睦の交渉は崩れてしまう――。信長の死を伏せたまま和睦を急ぐのか、戦い続けるのか。のちに「中国大返し」と呼ばれる選択と、その代償を追います。
ご注意:城主の切腹など、戦いの中での死を扱う場面があります。
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